2009年度第1学期                       入江幸男
学部:哲学講義「観念論を徹底するとどうなるか」
大学院:現代哲学講義「観念論を徹底するとどうなるか」
 
        第四回講義(2009年5月8日)
 
 
■先週の講義の訂正と補足
 
Rosenthalの主張について私の誤解がありました。訂正してお詫びします。)
 
(2)高次の思想」による心的状態の意識化とその問題(修正の上再説)
 
①意識的な心的状態と意識的でない心的状態が在る。
②心的状態を意識的状態にするものは、高次の思想である。
③この高次の思想も意識的である必要がある。
④高次の思想を意識的状態にするものは、さらに高次の思想である。
⑤ここに、無限の反復が生じる。
 
ここでは、<意識的状態は、心的状態と別の心的状態との関係によって成立する>と考えられている。この論証で説明が必要なのは、③である。
 
もしこの③を認めなければ、無限反復は生じなくなる。
 
先週、ローゼンタールが③を主張しているかのように紹介しました。
しかし、ローゼンタールは、③を主張していませんでした。
 
ローゼンタールが主張しているのは、次の二つです。
 
①意識的な心的状態と意識的でない心的状態が在る。
②心的状態を意識的状態にするものは、高次の思想である。
 
つまり、心的状態が意識されるのは高次の思想との関係によってであり、その高次の思想そのものは、更に高次の意識との関係において意識されるが、さもなければ、意識されないままである。つまり、この場合には、高次の意識は、意識的でない心的状態である。
 
ローゼンタールによると、デカルトは①を否定して次のように考えていた。
   ①′全ての心的状態は意識されている。
 
ちなみに、デカルトは、『省察』の「第四の反論への答弁」のなかで次のように述べている。
「心が思考するものであるかぎりでは、こころの中には意識されていないものは何もないという事実は、私には自明のことに思える。というのは、このように見なされた心の中にあると理解できるもので、嗜好でないもの、あるいは思考に依存しないものは、何も無いからである。もし、それが思考でもなく思考に依存するものでもないとすれば、それは思考するものとしての心には属さないだろう。そして、われわれのなかに存在していながら、どの瞬間にもわれわれが意識していないような思考を、われわれがもつことはありえない。」(チャルマーズ『意識する心』林一訳、p.34 からの孫引き)
 
もしこのように考え、かつ②のように考えると、③が帰結することになり、そこから、④と⑤が帰結し、説明不可能にある。
 
①′全ての心的状態は意識されている。
②心的状態を意識的状態にするものは、高次の思想である。
③この高次の思想も意識的である必要がある。
④高次の思想を意識的状態にするものは、さらに高次の思想である。
⑤ここに、無限の反復が生じる。
 
⑤は不合理なので、この推論の前提に間違いがあることになる。ここから、ローゼンタールは、①′を批判する。
 
ところで、デカルトにおいては、この無限反復は生じなかった。それは、①に加えて、デカルトが、②のように考えたからである。
①′すべての心的状態が、意識的である(デカルトの主張)
②′意識性は、すべての心的状態に内在的な性質である。
 
デカルトの②′の要点は、心的状態が意識されるのは、心的状態の内在的intrinsicな性質であると考えることである。それに対して、ローゼンタールは、心的状態が意識されるのは、高次の意識との関係によってであると考える。つまり内在的な性質ではなくて、「関係的な」性質であると考える。(これは、興味深い発想であり、この点については、後で触れる。)
 
さて、このようなデカルトの立場に対する、ローゼンタールからの批判を、次に説明しよう。
 
(3)先週の誤解のもう一点
 
先週次の部分を引用しました。
 
One especially notable feature of our presystematic view of consciousness which the Cartesian conception seems to capture perspicuously is the close connection between being in a conscious state and being conscious of oneself. An account in terms of higher-order thoughts has no trouble here. If a mental state's being conscious consists of having a higher-order thought that one is in that mental state, being in a conscious state will imply having a thought about oneself. But being conscious of oneself is simply having a higher-order thought about oneself. So being in a conscious mental state is automatically sufficient for one to be conscious of oneself.“ (p.344)
 
「・・・高次の思想という用語による議論は、ここでは問題を起こさない。しかし心的状態を意識することが、「ひとが心的状態にいる」という高次の思考をもつことであるなら、意識的であることは、自己についての思想をもつことを含意するだろう。しかし、自己を意識していることは、単に、自己についての高次の思想をもつことである。意識的心的状態の中にいることは、ひとが自己を意識するのに、自動的に充分である。」
 
ここでの「高次の思想という用語による議論は、ここでは問題を起こさない。」というのは、(先週間違って説明したが)高次の思想という反復の問題ではなかった。
 
この以下の引用にあるように、心的状態の意識化が、高次の思想によっておこなわれるとき、高次の思想は、自己(self)の意識を生み出すことになる。したがってこの高次の思想から、自我ないし自己意識の発生を説明することが出来る、とローゼンタールは考える。これに対して、デカルトのように、すべての心的状態に、意識性が内在しているのだとすると、心的状態の意識化の問題と、自我意識の成立の問題がどのように関係するのかを説明できなくなる。上の下線部分は、高次の思想を用いると、この問題が解決できると主張している部分であった。
 
             §3 現代認識論における議論(続き)
 
3、BonjourによるRosenthalへの批判
 
(1)「もしも、意識の高階の思考理論が正しいならば、基礎付け主義はうまくいかない」(p.82)
 
確かに、一階の内容についての高次の思想は、それ自体正当化を必要とする。そして、それの正当化は、与えられない。
しかし、Rosenthalは、この高次の思想によって、経験的な知識の基礎付けを与えようとしているのではない。彼は、むしろ高次の意識の不可謬性を否定している。彼によると、高次の意識は、心的状態によって因果的に惹き起こされるのであり、心的状態とそれについての高次の意識の間には、誤りや歪曲の入る可能性がある。
 Rosenthalは、Davidsonに言及していないが、Davidsonが感覚とそれについての信念の関係を因果的関係と考えたの同様に、心的状態とそれについての高次の思想の関係を「因果的」関係と考えるのである。したがって、この信念は正当性を持たない。
 Bonjourのこの批判は、的外れである。
 
 
(2)高階の思考(高次の思想)では、意識化を説明できない。
「問題は、この図式の中で、どのようにして、そしてなぜ、私が自分の一階の信念や思考を意識するかである。私がその内容を意識するのは、明らかに、単に、私が一階の思考を持つことによってではない。一階の内容は二階の思考のないように反映するというが、ローゼンタールの見解によれば、二階の思考については、さらに高階の〔三階の〕思考が存在しないのだから、私はその二階の内容もまた意識しない。そうすると、この一階の内容についての意識は、どこからもたらされ、どこに存在するのだろうか?一階の思考が意識的でなく、二階の思考も意識的でなく、そしてそれ以上の高階の思考が存在しないならば、(それがいくらあってもただ無意識的な長い思考の列が生じるだけである)、一階の内容は、どこに出現するのか?それが出現する場所がないとすると、それは、一階の思考が(何らかの意味で)意識的であるという仮定に反する。これは、意識の高階の思考理論に対する背理法になるのではないだろうか。」(前掲訳p. 83-84
 
ローゼンタールならば、この批判に対して、<意識的であることは、一階の思考や二階の思考の内在的な性質ではなくて、両者の関係が一階の思考を意識的にするのだ>と答えるだろう。しかし、この返答は、まだ十分に説得的ではない。
 
ところで、この批判は、Bonjourの主張する「気付き」にも妥当するのではないのか。その「気付き」が気付かれていないとすると、それはさらに高階の気付きを必要とするのではないのか。
 
Bonjourのこの批判は有効だが、しかし、Bonjour自身も無傷ではいられない。
 
(3)Rosenthalは、意識状態の内容の意識と、意識状態についての反省的意識を混同している。
 
「私の診断では、ローゼンタールは(おそらくデカルトその人を含む他の多くの人たちと共に)、二つの微妙にしかし決定的に違うものを混同している。一つは意識的な心的状態の内容についての意識であり、私が考えるに、これは現に生じている意識状態に内在する。そしてもう一つは、その状態についての反省的ないし統覚的な意識、すなわち、そのような状態が現に生じているという意識であり、これが二階のあるいは統覚的な状態を必要とすることに異論はない。」84
 
心的状態が志向的性質なら、ローゼンタールのいう高次の思想は、「私は、「sはpである」と信じている」などとなるだろう。これは、Bonjourのいう発語内行為への気付きとよく似ているのではないか。
 
心的状態が現象的性質なら、ローゼンタールのいう高次の思想は、「私は、痛みを感じている」などとなり、痛みについての意識とは別のものであるように思われる。しかし、現象的性質について、Bonjourが感覚的経験についての「気付き」について述べていたことと似ている。Bonjourは、「現在の私の視覚経験が、視野のほぼ中央に赤く四角い断片を含んである」という信念を正当化するようなものとして、感覚経験に構成的に組み込まれた「気付き」があるというという。このような「気付き」は、感覚が生じているということの意識だと考えることも出来るだろう。
 
Bonjourのこの批判が、彼の主張の論証として有効であるのかどうかについては、このように疑問が残る。つまり、確かにRosenthalは、内容の意識と、意識の存在の意識を区別していないかもしれない。しかし、Bonjourは自分のいう「気付き」が内容の式だというが、その内実は、Rosenthalの高次の思想と似ており、それは内容の意識にあわせて、意識の存在の意識という側面も強く持つものである。
 
Bonjourの「気付き」についての議論の検討は、後の講義で言語の検討をするときに、行なうことにして、ここでは見送ることにします。)
 
4、暫定的なまとめ
 
■「存在するとは、意識されていることである」という主張を採用するとき、意識の存在については、次の三つの立場が考えられると述べた。
 
壁の意識が存在するためには、壁の意識についての別の意識がある必要はない。
今回確認したようにデカルトはこう考えていた。現象論もこう考える。或る研究者に聞いたところによると、フッサールもそのように考えていた可能性がある。
 
②壁の意識が存在するためには、壁の意識についての前反省的意識があればよい。これは、通常の意識とはことなり、意識されなくても存在する。
サルトルの「前反省的意識」は、通常の意識とは異なるものとして考えられている。Bonjourの「気付き」は、サルトルのいう「前反省的意識」と同様に、通常の意識とは異なるものである。今回確認したローゼンタールの「高次の思想」は、通常の意識である。ここには明瞭さの異なる様々な段階の気付きないし意識が考えられ、複数の異なるレベルを想定する研究者も多い。例えば、ローゼンタールは、通常の高次の思想を、二階の思想とし、通常「内省」とか「反省」と呼ばれているものを、三階の思想と考える
 
③壁の意識が存在するためには、壁の意識に知的直観が伴っていることが必要である
これは、通常の意識と異なり、主観と客観が同一であるような意識であり、他の意識を意識すると同時に、これ自身もまた意識している。(Fichteの主張)
 
②は、意識されていない意識を想定している。そのような意識の存在を認めることは、「存在するとは、意識されていることである」というテーゼに反する。
①のように考えるとき、心的状態の存在は、「存在するとは、意識されていることである」というテーゼに合致する。しかし、二つの心的状態が存在するとき、その関係もまた存在するはずであるが、その関係の存在は、意識されていない。これは「存在するとは、意識されていることである」というテーゼに反する。
もし③の知的直観は怪しげで信用できないとすると、どうなるのだろうか。
 
■「存在するとは、意識されていることである」というテーゼが間違いなのではないか?
 
このテーゼを認めないということは、意識されなくても存在するものを認めるということである。そうすると、デカルトのように物質とは異なる精神としての実体を認める立場、カントのように心の諸能力(認識能力、欲求能力)を認める立場、あるいは、唯物論者ないし物理主義者のように域がそれにsuperveneする脳状態を認める立場などが可能である。
 
①や②の主張は、多くの場合、精神としての実体の属性、心の能力の作用(ないし所産)、脳状態に付随するものとして、意識を理解する。
 
●精神的実体を想定する場合
デカルトのような精神的実体を想定すると、物心二元論になり、心的因果の説明が出来なくなる。精神的実体だけをみとめる一元論ならば、説明は整合的になる。しかし、前述のように、それの存在を証明することは困難である。その困難は、実在論の証明とおなじ程度である。
 
●心的能力を想定する場合
カントのように心的能力を認めるとすると、意識化の説明は次のようになる。カントは、「超越論的統覚」(die transzendentale Apperzeption)と呼ばれる「我々の認識の根本的な能力」(das Radikalvermögen unserer Erkenntnis)によって、表象がまとめられることによって、一定の内容を持った知覚や経験や判断が可能になると考える。つまり、超越論的統覚と結合することによって、表象が意識されると考えている。全ての表象は、「私が考える」(Ich denke)という表象と結合することが可能であり、そのように結合することによって、明確に意識される。
 
カントが自我自体という精神的実体を認めていたかどうか判らないが、心的能力を想定するためには、それの担い手としての存在者を想定しなければならないだろう。もし能力の担い手として精神的実体を想定できないとすると、物理主義しか残されていない。
 
●物理主義を想定する場合(以下は、素人の想像です)
例えば、脳機能の局在説が正しいとすれば、超越論的統覚(という能力ないし機能)に対応する脳の部分があり、そこと黄色の知覚に対応する脳状態をつなぐニューロンが活性化するときに、黄色の知覚の気づきが生じると考えられるだろう。さらにその状態と、言語中枢が繋がるとき、「私は黄色に気付いている」という意識が発生するのかもしれない。
 
例えば、脳機能の局在説をとらないとすると、心的状態が意識化されるとは、例えば知覚が意識化されるとは、知覚をsuperveneしている脳状態になんかの特殊な活性化が生じるときに、知覚の意識化がsuperveneするのだ、と説明できるかもしれない。しかし、二つの知覚が意識化されるとき、それらはともに気付かれているので、二つの気付きにたいおうする脳状態そのものも繋がっているはず、つまりそれらの脳状態をつなぐニューロンが活性化しているはずである。つまり、心的状態の気付きは、脳状態の特殊な活性化によるだけでなく、それらの活性化はつねに互いに繋がっていることになる。
 
問題1「物理主義の立場に立って、心的状態の意識化を説明して下さい。」あるいは
問題2「統覚の脳機能の局在説は、多重人格の現象と矛盾するでしょうか?」